大判例

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大阪高等裁判所 平成2年(ネ)2615号 判決

控訴人

甲野一郎

右訴訟代理人弁護士

石川寛俊

堀和幸

被控訴人

乙川春夫

右訴訟代理人弁護士

出口治男

北條雅英

三重利典

主文

本件控訴を棄却する。

控訴費用は控訴人の負担とする。

事実

一  申立て

控訴人は、

「原判決を取り消す。

被控訴人は控訴人に対し、五〇〇万円及びこれに対する昭和六〇年一〇月二四日から支払済みまで年五分の割合による金銭を支払え。

被控訴人は控訴人に対し、原判決別紙一記載の謝罪広告を同記載の各新聞に同記載の条件で掲載せよ。

被控訴人は控訴人に対し、原判決別紙二記載の謝罪広告を同記載の各雑誌に同記載の条件で掲載せよ。

被控訴人は控訴人に対し、原判決別紙三記載の謝罪広告を同記載の雑誌に同記載の条件で掲載せよ。」

との判決を求め、

被控訴人は控訴棄却の判決を求めた。

二  主張

当事者双方の主張は、以下に補充するほか、原判決の事実摘示中、「第二請求原因」、「第三 請求原因に対する被告の認否」、「第四 抗弁及び主張」、「第五 抗弁及び主張に対する認否」の項に記載のとおりである。

三  控訴人の補充主張

1  文献①〜⑪の著作物性

被控訴人は、自然科学上の法則、発見は単なる事実(の説明)であって、著作権上の保護を受けない、旨主張する。しかし、自然科学上の法則、発見が著作権上の保護を受けないというのは、それが事実あるいは真実(の説明)だからではなく、それらは、多くの場合、だれが書いても同じ内容になるからであり、その意味で個性に欠け、創作性に乏しいからである。文献①〜⑪は、ウィルソン・コーワン方程式からファンデルポール方程式あるいはフィッチュー・南雲方程式が導出できること及びその導出過程を、野川グループが他に先駆けて、文字や方程式を使用して論証したものである。その導出過程の説明は、だれが書いても同じという没個性的なものではなく、創作性を有していることは明らかなので、著作権法上の保護を受ける。

被控訴人は、方程式それ自体は著作権法上の保護を受けない、旨主張する。しかし、方程式は、自然科学上の法則や事象等を、文字や言語で表現する代わりに、記号等を使用して創作的に表現したものであり、自然科学上の共通言語というべきものなので、すべて著作権法上の保護を受けないとはいえない。また、文献①〜⑪は方程式の性質自体を論じたものではないし、そこでの方程式は、実質的には新しい意味が付与されたもので、著作権法上の保護を受ける。

原判決は、文献①〜⑪の著作物性を認定する一方で、閲読審査のない学会アブストラクトなどは厳密な意味では科学論文とは認められないとして、これらと第一、第二論文の間に著作物としての質的な区別を設定した。しかし、学会発表といえども、すべて専門家の閲読審査により事前に選別されている。文献①〜⑪のうちの学会アブストラクトと通常の論文との間に質的区別を導入することは許されない。

2  第一、第二論文と著作権侵害

(一)  数理科学の世界では、専門著作物性が、形式的異同ではなく、数理科学における学問的意義により決定されている以上、そこでの著作権侵害は、その学問的実質により判断されなければならない。そこでの学術論文は、表現形式や表現方法には格別の意味もなく、一般に、そこに盛られた科学的思考が、著作権による保護を受ける。

あるテーマに関する一連の数理的研究の発展は、「基本部分」、「拡張部分」、「派生部分」の三つに分けることができる。基本部分は、それ以後に続いた一連の研究の突破口を切り開いた研究であり、そのテーマに関する研究の根幹部分をなす。本件では、一成分の神経集団についての業績が基本部分であり、文献①〜⑪がこれを構成する。拡張部分とは、基本部分の条件を更に一般化して考察したものであり、その特殊な場合あるいは簡単な場合として、基本部分の結果を包摂するような理論構成のものをいう。本件では、多成分の場合が拡張部分であり、第一論文の前半部分がこれに相当する。派生部分とは、本来の主題から派生して独立の主題を取り扱った部分であり、本件では、訴訟の対象外の部分がこれに該当する。

第一論文、第二論文の各節を三つに分類すれば、次のとおりである。

〈第一論文〉

第一節 序説

第二節 連立ファンデルポール方程式の導出 拡張部分(基本部分を含む)

第三節 二つの振動子の結合

派生部分

第四節 内部共鳴 派生部分

第五節 結語

〈第二論文〉

第一節 序説

第二節 ウィルソン・コーワン模型

基本部分

第三節 分散関係 派生部分

第四節 簡単化した方程式の導出

基本部分

第五節 簡単化した微分方程式の例

基本部分

第六節 安定性と分岐 派生部分

第七節 結論

第一論文の第二節は多成分の場合を取り扱っているが、これは、既に文献②、⑤、⑥、⑧で完成している一成分の場合を形式的に多成分へと拡張して記述しているにすぎず、そこに盛られた数理科学的実質は、一成分の場合と同等である。

(二)  第二論文の第二、第四、第五節は基本部分であり、実質的内容は、文献⑤、⑥、⑧、⑨と同等である。被控訴人が独自の業績と主張するものは、派生部分には妥当する面もあるが、基本部分や拡張部分には当てはまらない。

数理科学研究の発展においては、まずブレークスルー(突破口)があって基本部分が作られ、拡張部分がそれに続いて作られる。通常は基本部分で成功した方法論が拡張部分にも適用できるので、基本部分の導出を詳しく述べて、拡張部分の叙述は簡略して述べることが多い。しかしながら、研究者によっては、基本的部分だけを独立の論文として発表せず、拡張部分の完成を待って全体を発表することもある。この場合には、拡張部分の中の特殊な場合として基本部分が包摂されてしまうので、基本部分が見えなくなる。数理科学の論文では導出過程の詳細を記載しないことも多く、その記載の有無は実質異同ではなく、形式的異同とされる。

文献①〜⑪の発表は、神経集団の力学の研究に方法論上の飛躍をもたらした。すなわち、ウィルソン・コーワン模型をファンデルポール方程式あるいはフィッチュー・南雲方程式に還元することに成功したので、神経集団の力学を、数理科学の世界でよく知られた道具を使って研究できるようになったわけである。またそれは、神経集団の力学が単一神経の力学と同じ方程式に支配されることを明らかにした点でも画期的であった。この点からして、文献①〜⑪は神経集団の力学において、ブレークスルー(突破口)となる研究であった。

一成分と多成分の区別は、一連の研究の文脈の中では本質的なものではなく、両者に貫通する方法、主題及び結論の根幹部分が他のアプローチと対比される。この区別は形式的相違にすぎない。第一論文は、一成分が多成分に拡張されているとはいえ、論文の根幹をなす基本部分は文献①〜⑪と同等であり、右のブレークスルーを、被控訴人単独で公認させようとする企みは、抜駆けの不法行為に当たる。

数理科学は、研究の発展とともにその実質が変容していくので、その文脈に沿って理解しなければならない。文献①〜⑪及び第一、第二論文を通して最も基本的な主題と結論は、ウィルソン・コーワン模型からファンデルポール、フィッチュー・南雲方程式が導けることである。この流れを理解して、各著作物の実質的内容を検討しなければならない。

(三)  ウィルソン・コーワン模型からファンデルポール方程式が導かれることを明らかにしたのは、野川グループの共同研究の成果である。右共同研究の成果は、文献①〜⑪という形で学会等で発表されてきた。

神経集団の力学というテーマを理解できたのは、野川グループのうち控訴人と被控訴人のみであり、右共同研究の成果は、実質的には控訴人と被控訴人の両名によって得られたものであった。

被控訴人もこのことを理解し、第一論文の原稿を野川病院に持参し、第二論文の原案ともいうべき手書き原稿をイギリスから野川グループに送り、第一、第二論文の公表について、野川グループの了解を得ようとしていた。

そして、第一、第二論文の前半部分の主題は、ウィルソン・コーワン模型からファンデルポール方程式及びフィッチュー・南雲方程式が導けることを明らかにした点で、野川グループの共同研究の成果である文献①〜⑪の発行及びこれに基づく学会発表と重複している。

以上の事実にもかかわらず、被控訴人が控訴人の了解なく第一、第二論文を発表したことは、野川グループの共同研究の成果を、被控訴人で一人占めしたといっても過言ではない。学術論文の創作性という観点からすれば、第一、第二論文の前半が文献①〜⑪と重複することは明らかである。仮に第一、第二論文の重点が後半にあったとしても、科学思想の創作性が重複さえしていれば、著作権侵害を認めるのに支障はない。

(四)  第一論文の要旨を章立てに従って示すと、

第一節……ウィルソン・コーワンの神経モデルによって脳波現象を理解しようとする試みの概説から、神経集団の適切な模型から結合振動子系を導き出すことの価値の大きさを指摘する。

第二節……ウィルソン・コーワンの神経モデルを一般の集合に拡張し、シグモイド関数を作り、べき級数展開してファンデルポール方程式を導く。

第三節、第四節……前二節は一般の神経細胞集合に関するものであるが、これらの節では二個の自由度を持つ神経集団の場合に限定し、振動の安定性について論じる。

第五節……本論文の結論として、まず拡張されたウィルソン・コーワンの模型から連立ファンデルポール方程式が導けること、これが脳波の発生機序の理解に役立つことが述べられ、次いで二つの自由度を持つ振動子の安定性について引込みの可能性が示されることを述べる。

そして、(1) シグモイド関数を選定する、(2) べき級数展開、(3) 不要項を捨てる、という過程、解析の手法は文献①〜⑪に尽くされており、とりわけ文献⑤に明瞭に叙述されている。

第二論文の意義は、第一義的には、ウィルソン・コーワンの模型が、いくつかの仮定の下ではより簡単な微分方程式、すなわち反応―拡散型、フィッチュー・南雲型、BVP型、ファンデルポール型方程式などへ還元できることを示した点にある。第二義的には、これによって分岐の問題を論じた点にある。

原判決は、第二論文が文献①〜⑪の著作権を侵害しない理由として、(1) 第二論文は空間分布がある場合について論じていること、(2) 微分方程式ではなく、微積分方程式を分析の対象としていること、(3) 独立変数を導入して拡散項を導いていること、を指摘している。

しかし、ウィルソン・コーワンの一九七三年の論文(〈書証番号略〉)そのものが、空間分布のある場合を取り扱っているのであるから、これを出発点とする限り、空間分布、つまり、空間相互作用がある場合について論じることになる。野川グループの共同研究が空間分布のある場合を取り扱っていて、文献⑤、⑧、⑨として結実している。

次に、微分方程式か微積分方程式かの問題をみると、もともと右のウィルソン・コーワンの論文にある式が積分記号の混じった微分方程式で表されており、微積分方程式と呼んでもよいし微分方程式と呼んでもよい。

また、右のウィルソン・コーワン方程式から出発すれば、これは空間相互作用がある場合の方程式なので、空間相互作用を示すx微分が最後までついて回るのは当然である。そして、簡単化を進めてもx微分が残り、この項を特に拡散項と呼ぶことがあるので、空間相互作用がある場合には、拡散項が残るのは当たり前ということになる。

以上のように、第一、第二論文は、野川グループの共同研究で明らかにされた「ウィルソン・コーワンの模型からよく知られた微分方程式を導き脳波現象の解明に大きな貢献ができる」との命題を、空間相互作用の有無に分類して、各論文の主要命題に再論しただけである。確かに、各論文の後半には、これら簡単化によって方程式を導いた結果から、安定性の問題に言及してはいる。しかし、著作権侵害を主張しているのは、各論文の前半部分すなわち簡単化の点なので、後半部分が存するからといって、著作権侵害は免れない。(五) 被控訴人は、第一、第二論文は文献①〜⑪の内容を、より具体的に論証しており、更に発展させた研究であると反論する。しかし、学問の世界では論証なり発想なりがその価値を決定するのであろうが、著作権の保護は、そこでの価値とは無関係に、同一の思考が著作物として模倣ないし複製されているかどうかによって決定される。

そして、文献①〜⑪の模倣ないし複製として第一、第二論文が存在するかどうかは、数学的論証が創作的にされたかどうかに係っている。被控訴人は、論証抜きに思考が述べられても、それは自然科学上の主張なり命題として意義を有しないとするが、科学的思考(アイデア)の表現には多種多様の形式があるので、論証の記載がないからといって、科学的思考でないとされるものではない。文献①〜⑪が学会発表における抄録であるのに対して、第一、第二論文がフルペーパーという形式として表現されているからといって、両者の科学的思考や論証が異なるということにはならない。

代表的に、文献②、⑤と第一、第二論文の論証部分を対比すると、まず、文献②は一成分系に関し、第一論文は多成分系に関するものであって、形式上、取り扱う場合が異なる。しかし、簡単化のポイントはすべて対応づけることができ、ほとんど何も変更せずに移行することができる。文献⑤と第一論文に関しても同じことがいえる。また、第二論文第四、第五節の記述は、一つの可能なべき級数展開の荒筋を述べており、文献②、⑤の記述と同等のレベルである。

3  著作権法三二条の引用(否定)

第二論文では、文献②が第五節末尾に、また、文献⑤が第四節六行目と第五節五六行目に、括弧書きで他の文献と並列的に挙げられている。しかし、第二論文は文献①〜⑪の労作を模倣して論述を展開しているのであるから、その他人の著作を単に参考文献として掲げるだけでは、著作権侵害の阻却を定める著作権法三二条にいう引用に該当しない。

原判決は論文の引用について、「学会、国際会議での発表や会議録は専門家の閲読を経ていないので、厳密な意味での科学論文とは認められず、このため、科学論文には学会、国際会議での発表や会議録は引用しないという慣例があるものと認められる」と判断したが、誤りである。第一に、学会や国際会議における発表は、すべて事前に専門家に閲読されているからであり、第二に、学会抄録はフルペーパーとは異なる形式の情報であるものの、その情報の価値は非常に高いと考えられているからである。そして第三に、科学論文では、自説が依拠する情報源は、公刊されたものであれ、未公刊のものであれ公正に提示するのが義務とされているからである。

四  被控訴人の補充主張

控訴人は、拡張部分と派生部分は、基本部分と同一だと主張するのであろうか。そうだとしたら、表現を無視したもので、著作権法の解釈として明らかに誤りである。このような解釈では、自然科学の進歩発展は著しく阻害され、著作権法が目的とする文化の発展も妨害することになる。しかも、何が基本なのか、何が拡張、派生なのかは、研究者の主観が強く働く。このような瞹昧な概念を著作権法の解釈に持ち込むことは、自然科学研究に耐えられない混乱をもたらすことになり、許されない。

第一、第二論文は、自然科学上の一定の法則を解明した科学論文である。控訴人が著作権侵害として問題としている点との関係でいうと、第一論文は、興奮性、抑制性の神経集団が一つずつの場合を取り扱ったウィルソン・コーワン模型を、興奮性・抑制性の神経集団が多数ある場合に拡張して相互に結合したファンデルポール方程式を導出し得ることを解明したものであり、第二論文は、空間分布のあるウィルソン・コーワン模型(微積分方程式)を簡単化するについて、独立変数の変換を導入することにより、拡散項を含むフィッチュー・南雲方程式が導出できることを解明したものである。

この第一、第二論文で扱っている数式や展開形式は、自然科学上の法則、発見の集積である。このように科学論文では、常に自然科学上の法則、発見を取り扱い、その集積の上に立って新たな法則、発見を解明する。多様な自然科学上の法則、発見は単なる事実であって、それ自体が著作権法上の保護を受けるわけではない。自然科学上の法則、発見は万人にとって共通した真理であり、何人にも自由な利用が許されるべきである。

控訴人は、アイデアが重要で、これを侵害されたようないい方をするが、思想、感情自体はたとえそれが創作的なものであっても、著作権保護の対象となるわけではなく、具体的に表現された創作的な表現形式となって初めて保護の対象となり得る。

しかも、研究経過を仔細に眺めれば、第一、第二論文が被控訴人の独自の業績によるものであり、著作権侵害はおよそ問題にならないことは明らかである。

理由

一控訴人及び被控訴人の地位とその共同研究は、原判決理由中の「第一当事者及び原・被告らの共同研究について」の項(二〇枚目裏三行目〜二二枚目裏末行)で示されているとおりである。ただし、二二枚目表八行目から九行目の「原・被告ら五名の共有と解するのが相当である。」を、「控訴人、被控訴人を始めとする五名によって達成されたものである。」と改める。

二文献①〜⑪の形式、内容は、原判決理由中の「第二 文献①ないし⑪の形式・内容とその著作物性」の項のうち、一及び二の項(二三枚目表一行目〜二八枚目裏七行目)に示されているとおりである。

三第一、第二論文の発表(原判決七枚目表一行目から同裏三行目の事実)は当事者間に争いがなく、〈書証番号略〉によれば、第一、第二論文は英文で作成されていることが認められる。第一、第二論文の発表の経緯は、原判決三一枚目表以下の「二」の項(同八行目〜三二枚目裏九行目)に示されているとおりである。

四ところで、数学に関する著作物の著作権者は、そこで提示した命題の解明過程及びこれを説明するために使用した方程式については、著作権法上の保護を受けることができないものと解するのが相当である。一般に、科学についての出版の目的は、それに含まれる実用的知見を一般に伝達し、他の学者等をして、これを更に展開する機会を与えるところにあるが、この展開が著作権侵害となるとすれば、右の目的は達せられないことになり、科学に属する学問分野である数学に関しても、その著作物に表現された、方程式の展開を含む命題の解明過程などを前提にして、更にそれを発展させることができないことになる。このような解明過程は、その著作物の思想(アイデア)そのものであると考えられ、命題の解明過程の表現形式に創作性が認められる場合に、そこに著作権法上の権利を主張することは別としても、解明過程そのものは著作権法上の著作物に該当しないものと解される。

文献①〜⑪が思想を創作的に表現したものであり、学術の範囲に属するものとして著作物性を有し、控訴人及び被控訴人ほかの共同著作物となったものであることは疑いない。しかし、控訴人が、本訴で文献①〜⑪の著作権侵害として主張するところは、帰するところ、野川グループの共同研究の成果である文献①〜⑪で明らかにされた、「ウィルソン・コーワンの模型からよく知られた微分方程式を導き脳波現象の解明に大きな貢献をすることができる」という命題を、空間相互作用の有無に分類して、第一、第二論文の主要命題として、あるいはその前提となるものとして、第一、第二論文に解き明かした被控訴人の行為であるというのである。この主張からも明らかなように、ここで主張されている著作権侵害形式は、文献①〜⑪に表された命題の解明過程にあり、その独自の表現形式が著作権の侵害として主張されているものではない。

五ちなみに、第一、第二論文と文献①〜⑪の表現形式を対比してみると、第一論文が、文献①〜⑪との間で構成及び表現を異にするものであることは、原判決三二枚目裏一一行目〜三七枚目裏三行目に示されているとおりであり、第二論文が、文献⑨を除く文献①〜⑪との間で構成及び表現を異にするものであることは、原判決三八枚目表一行目〜四一枚目表六行目に示されているとおりである(ただし、四〇枚目裏二行目から三行目の「これらは……論証したものではないので、」を「これらには、還元に至る手順についての論証の記述がないので、」と改める)。第一、第二論文の論述内容及びその表現も、右に引用した原判決の説示部分に示されたとおりである。

右に引用した原判決の説示を再述すると、

第一論文は、興奮性及び抑制性の神経集団の相互作用を二成分の場合に限定し、拡張したウィルソン・コーワン模型から結合ファンデルポール方程式を導き、二つの結合振動子系の相互作用を数学的に解析したものであるのに対し、文献①〜⑪のうち命題解明過程の記載がある文献②、⑤、⑥、⑨は、主として空間分布のない一成分のウィルソン・コーワン模型からいくつかの簡単化したファンデルポール方程式が導き出せることの荒筋を記述したにとどまる。すなわち、第一論文は、文献①〜⑪の命題から発展した命題を取り扱うものであり、別の命題を取り扱うものである。

また、第二論文は、空間に分布した複数の興奮性及び抑制性の神経集団の相互作用を取り入れたウィルソン・コーワン模型の微積分方程式を対象として、これに独立変数を導入して簡単化し拡散項を導き、フィッチュー・南雲方程式その他のファンデルポール方程式に還元するというものであるのに対し、文献①〜⑪のうちウィルソン・コーワン模型からファンデルポール方程式を導く記述は、空間分布のないウィルソン・コーワン模型すなわち微分方程式をテーラー展開という方法で簡単化し、ファンデルポール方程式を導くというものであり、第二論文と文献①〜⑪とは取り扱う命題を異にするものである。

六表現形式が同一のものとして唯一のものとして、次のものがある。

すなわち、第二論文の冒頭“Abstract”(要旨)の中に

“Several simplified differential equa-tions are derived from the Wilson and Cowan model describing the dynamics of excitatory and inhibi-tory neurons.”

(訳文……「興奮性及び抑制性の神経系の力学に関するウィルソン・コーワン模型から、いくつかの簡単な微分方程式を導いた」)

との結論部分があり、文献⑨の本文四行目以下には、

“we derive several simplified differ-ential equations from the Wilson-Cowan model of the dynamics of excitatory and inhibitory neurons.”

との記述があり、この点、両者はほぼ同一の記述なので、さきに説示した数学に関する著作物中の著作権保護の限界に即して検討を加えることとするが、本判決別紙(第二論文に記載の手順)によりつつ第二論文と文献⑨とを対比してみると、次のとおりである。

まず第二論文の主眼は、空間に分布した複数の興奮性及び抑制性の神経集団の相互作用を取り入れたウィルソン・コーワン模型の微積分方程式を対象として、これに独立変数を導入して簡単化し拡散項を導き、フィッチュー南雲その他のファンデルポール方程式に還元するというものである(前記引用の原判決四〇枚目裏以下の(5)の項)。

第二論文においてこの導出過程は、

A  空間分布のあるウィルソン・コーワン方程式(1)〜(4)を記述する。

B  簡単化の手段として、二つの手法を示す。

B-イ 第一の簡単化(「たたみ込み積分」の簡単化)―スケールを変えた新しい変数Zを(17)式として導入して、たたみ込み積分を書き直し、テーラー展開して微分の形(19)式で近似する。

B-ロ 第二の簡単化―シグモイド関数を文献②と同様の形(22)式にテーラー展開する。

C  簡単化された(19)、(22)式の近似によって、(1)〜(4)式を(23)〜(27)式の反応―拡散型偏微分方程式に変形する。

D  最終的にはフィッチュー・南雲方程式と数学的に同等の(30)、(31)式を導く。

旨の記載があり、一方、文献⑨には、

a  空間分布のあるウィルソン・コーワン方程式(1)式が記述される。

b  「(1)式の合成積のテーラー級数展開は、最低次の近似で拡散項となる。」との記載と、「低い活動度のときS字型関数は神経集団の閾値のまわりに展開できる。」との記載がある。

c  拡散型微分方程式(南雲型方程式と同等)の簡単化した(2)式が記述されている。また、「空間的に局在する神経集団の場合(すなわち、λ=0のとき)方程式(2)はフィッチューのBVP模型に還元される。」

との説明がある。

この第二論文と文献⑨とを対比すると、次のように評価することができる。

(1) 空間分布のある場合のウィルソン・コーワン方程式の記述形式がAとaとでは相違しているようにみえるが、一階の偏微分項を含む微積分方程式で表されている実質は同一の式ということもできる。

(2) 最終的なフィッチュー・南雲方程式であるDとcとは、同一の式で表現されている。

(3) ウィルソン・コーワン方程式の簡単化として、Bは特に(17)式を導入して新しい変数を取り入れることを示しているが、bでは簡単な記述が示されているだけで、簡単化の具体的数式は記載されていない。

この(17)式について、山口昌哉証人(原審。竜谷大学理工学部教授)は単なるスケール変換であり、このような変換を行わなくても最終的な南雲モデルに到達できるとしているが、田畑吉雄証人(原審。大阪大学経済学部教授)は、この式は単なるスケールの変換だけではなく原点の位置の変換も行っており、このためには(18)式を経てテーラー展開により微分の形に近似して拡散項(19)式が導けるとしている。

この両証言のいずれによるにせよ、以上にみた対比によると、第二論文と文献⑨とは、使用し表されている方程式に同一のものがあり、また、記述している命題に共通する部分があることは否定できないものの、第二論文と文献⑨との間の表現形式において共通するところは、前記の引用した部分(第二論文においては“Abstract”の冒頭の部分)にとどまる。そして、この共通する部分は、共通の命題をそのまま表したものにすぎず、特に創作性のある表現形式によったものということはできない。また、方程式の使用は著作物性を有しないから、右に対比してみた方程式の共通性は、著作権侵害とすることはできないので、第二論文の記述をもって、文献⑨が複製若しくは翻案されたものであり、その著作権が侵害されたものということはできない。

七〈書証番号略〉(名古屋大学教授・四方義啓作成の意見書)は、文献①〜⑪のうちの主要な文献につき、次のように評価している。

文献②の要旨は、ウィルソン・コーワンの神経モデルから級数展開による近似によってファンデルポール方程式(7)が導けることを示した点にある。

文献⑤の要旨は、空間相互作用のない場合のウィルソン・コーワンの神経モデル(1)から、ファンデルポール方程式(4)が導けることを示した点にある。

文献⑧の要旨は、空間相互作用のある場合のウィルソン・コーワンの神経モデルから、ある条件の下でフィッチュー・南雲方程式が導ける点にある。

文献⑨の要旨は、ウィルソン・コーワンの模型が、いくつかの仮定の下で、より簡単な微分方程式、すなわち反応―拡散型、フィッチュー・南雲型などへ還元できることを述べている点、さらに、これら近似解の安定性の問題が論じられている点にある。

そして、これら文献を通じての意義は、神経集団の模型から単純化されたより扱いやすい方程式系を導き出したこと、すなわち、空間相互作用のない場合には、ウィルソン・コーワンの模型からファンデルポール方程式が導けることを示し、空間相互作用のある場合には、ウィルソン・コーワンの模型が、いくつかの仮定の下で、反応―拡散型、フィッチュー・南雲型、BVP型、ファンデルポール型方程式などへ還元できることを示した点にある。

そして、〈書証番号略〉(四方義啓教授作成の概念図)も併せたところにおける同教授の見解は、文献②、⑤、⑧、⑨で表されているのは、ウィルソン・コーワンの原方程式からファンデルポールないしフィッチュー・南雲方程式を導き出す手法は、空間相互作用がある場合でも、これがない場合でも、共通して、(1) シグモイド関数選定、(2)級数展開、(3) 不要項を捨てる、という過程を経ているものということができ、出発が空間相互作用なしの場合にはファンデルポール方程式に帰着し、出発が空間相互作用ありの場合にはフィッチュー・南雲方程式に帰着するものということになる。これらは、特に文献⑤において、簡潔にではあれ、完成されたものとして表現されている、というのである。

各文献の記述をこのように理解できるかは、被控訴人が争っており、その主張の裏付けとして〈書証番号略〉(大阪大学基礎工学部教授・角谷典彦作成の意見書)を提出しているところであり、また高度の数学方程式の理解を踏まえなければならないところであって直ちに決定することができないが、仮に四方教授が示すように理解することが可能だとしても、少なくとも、前記五で示したように、第一、第二論文は、文献①〜⑪とは取り扱う命題を異にするのであり、またその著作権法上の表現形式を共通にするものということはできないので、第一、第二論文が文献①〜⑪の著作権を侵害するということにはならない。

八本件においては、文献①〜⑪を公表するまでに共同して研究してきた者の間の内部問題として、これらの文献の著作権侵害が主張されており、これらの文献の公表に至るまでの間に、研究成果の公表について何らかの黙示の合意が約定されたことに基づく債務不履行の責任を問題にする可能性も考えられないではない。しかし、控訴人の主張が、「本件は他人同士が著作権を争っているのではなく、それまでの共同研究者が従前の成果を土台として多少の派生部分を追加して単独著作物として発表した事例である。……共同研究部分の成果に属するものである限り、対外的発表には、その共同研究者の承諾を要するというのが著作権法の立場であり、一般研究者の常識的立場でもある。」と述べているところ(当審平成三年二月二一日付け準備書面一四頁)からも明らかなように、控訴人の本訴請求は、著作権法による権利侵害に基づくものであり、本件において右のような約定がされたことの主張立証はないし、本件の全証拠によっても、このような約定の成立は認められないところである。

また、控訴人は、被控訴人の論文の根幹をなす基本部分は文献①〜⑪と同等であり、右のブレークスルーを、被控訴人単独で公認させようとする企みは、抜駆けの不法行為に当たると主張し(前記控訴人の補充主張2(二))、被控訴人は、第一、第二論文で解明された命題についてのプライオリティーは控訴人にはなく、被控訴人は控訴人のアイデアを剽窃したものではないと主張する(原判決一七枚目裏以下の「三」の項)。控訴人の右主張は、本訴で主張されている著作権侵害の間接事情として述べられたものと理解できるが(控訴人も原審において、アイデアのプライオリティーそのものの当否についての判断を求めるものでないと主張している。平成元年六月二一日付け準備書面)、仮に何らかの別個の権利侵害を根拠に不法行為責任を問題としているとしても、一般に、学説ないし学問上のアイデアのプライオリティーが権利として保護されているものと解することはできず、このような権利侵害を根拠にする損害賠償請求も理由がない。

九したがって、第一、第二論文が、控訴人の共有する著作権を侵害したものとはいえず、また、氏名表示権等の著作者人格権を侵害したものともいえないので、控訴人の本訴請求は理由がない。本訴請求を棄却した原判決は正当であって、本件控訴は理由がないから棄却することとし、控訴費用の負担につき、民訴法九五条、八九条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 潮久郎 裁判官 山﨑杲 裁判官 塩月秀平)

別紙〈省略〉

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